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Showing posts from June, 2018

Discrete, integrate and balance

右脳と左脳を切り離されると連絡ができなくなり それぞれ別の判断と行動がなされる。 左脳は論理的に考えて行動しようとして右手に命令する。 右脳は感情的に考えて行動しようとして左手に命令する。 論理と感情が相反する事象に対応しようとしたとき 右手と左手は相反する行動をしようとし しかもそうであることを自覚することもできない。 逆にいうと,通常我々は自分の中の相反する判断に対して 無意識に折り合いをつけながら生きていると言える。 矛盾した自分というのは当たり前で 自分というのははじめから1つではなく 様々な感情や意志など複数の要素が関連し合い 統合されている(と思っている)状態である。 脳の機能のうち 自分を自分として認識している部分が破損した人は 自分を固定されている存在ではなく 水のように流動的で境界のないもののように感じる。 そして,感覚は世界へと延長され 宇宙と一体となったかのようにすら感じる。 実際,生命はその構成要素を刻々と置き換えながら ある種の流れの中に生きている。 霊というの存在の定義はよくわからないが ある意味,すべての生命は霊的だと言えなくもない。 実体と思っているものは流れの中のある時点の点 あるいは流れそのものであるからである。 個と捉えているものは流れであり より大きな流れの中の一部でもある。 少なくとも構成要素は そのもののアイデンティティとは無関係である。 “ゆく河の流れは絶えずして,しかももとの水にあらず” 水という構成要素は刻々と流れていき ある時点の水であることがその川をその川たらしめているわけではないが 「流れている」ということは川であることの条件の一部である。 * * * * * * * * * * それぞれの事物,あるいは自分というものが 離散的であるとか流動的であるとかいうように捉えてしまうと 建設的に思考を重ねることが困難になってしまう。 昨日の世界と今日の世界は違うし,昨日の自分と今日の自分も違う。 そのように考えてしまうと 昨日はそれでよかったことが今日はそうでないかもしれず また一から検証し,学びなおさなければならなくなる。 それでは厄介なので 同一のものみなし,過去の知見を今日でも活かせるとした方が 建設的に思考を成長させられると考えるのも無理もない。 実際に

What exists exists, what not exists not exists

あるものはある。ないものはない。 果たしてそうか。ないものをないと本当に言えるのだろうか。 * * * * * * * * * * 対象領域を限定した場合には言えるだろう。 目の前のテーブルの上にリンゴがあるのかないのか。 答えは何れかであり,どちらもありえる。 そしてある時点では決まっている。 たとえ何者も観測していなかったとしても。 * * * * * * * * * * 対象領域を限定しない場合はどうか。 人の認知しうる全てを対象とした場合。 世界のどこかにリンゴはあるか。 あるだろう。 たとえ過去または将来のある時点でリンゴのない時代があったとしても,時点を限定しなければ,やはりあるといえる。 我々は少なくともある時点ではそれがあったことを知っているからだ。 実在が不確実のものであっても「ない」としようとしているものの概念はある。 “宇宙に終わりはあるのか”などといった場合,その是非はともかく,“宇宙の終わり”という概念は自体は存在する。 空想の産物であっても,やはり頭の中で概念としては生み出されている。 そしてその概念を共有した時,はじめて「ある」のか「ない」のかを含めて論ずることができるようになる。 また,対象領域を限定しないということは,無限の可能性を含む並行宇宙のように実在の有無についても言及はしきれない。 * * * * * * * * * * 概念というものの集合について考えてみると,概念のないものは含まれない。 「ない」としようとしているものの対象は概念的には「ある」ので含まれる。 「ない」という概念についても,それ自体がこの問そのものではあるが,含まれる。 「ある」という概念については「ない」がないなら全て「ある」になるので,あえて定義する必要のある概念ではなくなり「ない」となってしまうのか。 いや,しかしながら概念の集合には「ある」も「ない」も含まれるだろう。 では,概念の集合に含まれないものは何か。 概念は人の知識を抽象化したものとすると,概念の集合は人の知識の集合に含まれる。   概念 ⊆ 人の知識 つまり,少なくとも誰も知らないものは概念の集合には含まれない。 人は知らないものは「ある」と知っている。 知らなかったも