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Showing posts from April, 2018

One sees the mud, and one the stars

牢獄に入れられた2人の囚人 ひとりは泥を見て ひとりは星を見た。 他人を羨む気持ちは泥, 自分の良いところに目を向けるのは星。 どんな人にも良い面,悪い面, 優れたところ,劣ったところはある。 羨望の眼差しを向けられる人にも 他者には分からない悩みはあるものだ。 自分の欠点や不利な点に注目するよりも 強みや有利な点を活かした方がよい。 星を見ることは, 人生をよりよく生きるための 秘訣のひとつだろう。 しかしながら,他者の良いところを見つけ, 引き出し,伸ばすこともまた星である。 あるいは,他者の悪い面を指摘して 扱き下ろしてばかりいては よい結果をもたらさないだろう。 星のカタチはひとつではない。 見るべきものはモノではなく 自分の心の状態にある。 自分が良い気持ちになれることに フォーカスすること。 だが,何によって気持ちがよくなるのかは 人によって異なる。 破壊や暴力,他者を貶めることで 快楽を得る者もいるかもしれない。 彼にとっては(邪悪な)星だが 世の中にとっては許容しがたいものである。 つまり,何を星とするべきなのか ということは,また別の問題なのである。 ・・・ では, 何を星と捉えることが望ましいのだろう。 それはコンテキストからもたらされる 道徳によって左右されている。 コンテキストとは,時代,土地,社会,宗教,文化,思想である。 社会を重んじるべきか,家族が大切か。 集団の調和か,個人の自由か。 人種や性別はどのような違いをもたらすか あるいはもたらすべきではないか。 平和や持続可能性というキーワードも 昔は今ほど強調されてはいなかっただろう。 しかし, 同じ時代,同じ社会に生きる者であっても 必ずしも同じ道徳が適用される訳ではない。 コンテキストは 幾重にも重なる層のようになっている。 ベースとなる大きなコンテキストの上に 個々の多様なコンテキストが折り重なって 混在している。 同じ時代の同じ国や地域であっても 異なる立場,異なる思想を持つ人たちで 構成されている。 実際に受ける影響は,接した人や 知りえた情報に依存する。 親,兄弟,友人,先生,仲間。 生まれ育って,接した人たちはみな異なる。 また, 受け手にもよっても受け取り方は異なる。 受け手の性質やレベルに

Between individual and species

種もまた,連続的であり,変化し続ける。 川のように流れ,分岐する。 また,途切れて消えることもある。 個体としての生命はさまざまな機能を持つ部分が協調動作している。 さらに代謝を行うことによって細胞やエネルギーを循環させ 活動・回復・成長・繁殖を可能とし,生命のシステムを成立させている。 一つの細胞だけがとても長寿であるとか とても強い力を発揮することは システム全体からすると無意味であるどころか害にすらなりうる。 古い細胞が分解され,新しい細胞が合成される。 システム全体は維持されているが,その細胞は循環している ということが重要である。 また,1個体の中で要素が循環しているのではなく 外部から何かを受け入れ,外部に何かを排出するということは システムを開かれた系にするという意味がある。 ・・・ 生命としての個の寿命もまた有限であるが, 無数の個が遺伝子を受け継ぎながら続いていく。 その中の個は種の存続を実現する要素に過ぎない。 個が有限であることが,種の多様性や変容性を高め, 全体として存続する可能性を高めている。 循環し,代謝することでシステムの強度を高めているのだ。 この観点で言えば, 個と種の関係は,個の生体と個の存在の関係との間において フラクタルな模様を描いていると言えるのではないだろうか。 種もまた有限であろう。 常に競争にさらされ,生き残りを賭けることを余儀なくされている。 種も絶滅の可能性を秘めながら変化し続けることで より高次元の何かを生み出そうとしている。 人類は終着点ではなく,過程に過ぎない。 より高い知性を持った何かが創発されることは十分にあるだろう。

Why does life prefer continuity

なぜ生命は連続性を好むのか。 私の存在は泡のように消え また再び現れるということはない。 たとえそれを望んだとしても。 もし,存在がデジタルの世界に置き換えられるとしたら あるときの状態は情報として保存され また別の任意の時間に復元することができるのかもしれない。 しかし,それは生命ではない別の何かだ。 不変ではなく,常に変化し続け しかも途絶えることがない。 いつか一個体としての生命として 終わりを迎えるまでは。 変化し続ける私は私ではあるが その瞬間の私と次の瞬間の私は別のものであるとも言える。 そして,そのようであることが連続している。 そのような存在としての私が 生命としての私である。 生命は身体に宿り,身体は変化し続ける。 意識や精神も身体の機能の一部であるならば それもまた生命の一部である。 もし誰かが彼と話をしたら それは単に彼から情報が引き出された というだけではなく 同時に彼の中の変化に影響を与えている。 対話や思考はそれ自体によって変化がもたらされる。 データベースから情報を取り出すこととは異なるものだ。 それは保存されることのない情報が 止まることのない時間の中で流れ続けているともいえる。 それは完全に捉えることができず 再現することはできない。 やり直すことはできない。 ・・・ しかしながら,意識に関して言えば デジタル化によって情報として保存することができる可能性がある という話もある。 もし再現された自我が異なる環境要因で変化するならば オリジナルとは違った変化をするだろう。 すると異なった分岐の可能性は永遠と続き 並行する異なる意識が無限に増える。 そうだとしても,それらは私と言えるのだろうか。 あるいは,環境要因で変化しないのであれば それは単なる情報であって ある側面の写像といえるかもしれないが 生命とは言えない。 また,デジタル化された情報であれば その一部を書き換えることもできだろう。 そうした場合,それは人のものといえるのか, それとも人工的なものというべきものなのか。 身体についても 組成情報の保存と復元方法が確立されたとすれば 再現できるのかもしれない。 仮に機能が同じであっても,それは生命