One sees the mud, and one the stars

牢獄に入れられた2人の囚人
ひとりは泥を見て
ひとりは星を見た。
他人を羨む気持ちは泥,
自分の良いところに目を向けるのは星。
どんな人にも良い面,悪い面,
優れたところ,劣ったところはある。
羨望の眼差しを向けられる人にも
他者には分からない悩みはあるものだ。
自分の欠点や不利な点に注目するよりも
強みや有利な点を活かした方がよい。
星を見ることは,
人生をよりよく生きるための
秘訣のひとつだろう。
しかしながら,他者の良いところを見つけ,
引き出し,伸ばすこともまた星である。
あるいは,他者の悪い面を指摘して
扱き下ろしてばかりいては
よい結果をもたらさないだろう。
星のカタチはひとつではない。
見るべきものはモノではなく
自分の心の状態にある。
自分が良い気持ちになれることに
フォーカスすること。
だが,何によって気持ちがよくなるのかは
人によって異なる。
破壊や暴力,他者を貶めることで
快楽を得る者もいるかもしれない。
彼にとっては(邪悪な)星だが
世の中にとっては許容しがたいものである。
つまり,何を星とするべきなのか
ということは,また別の問題なのである。
・・・
では,
何を星と捉えることが望ましいのだろう。
それはコンテキストからもたらされる
道徳によって左右されている。
コンテキストとは,時代,土地,社会,宗教,文化,思想である。
社会を重んじるべきか,家族が大切か。
集団の調和か,個人の自由か。
人種や性別はどのような違いをもたらすか
あるいはもたらすべきではないか。
平和や持続可能性というキーワードも
昔は今ほど強調されてはいなかっただろう。
しかし,
同じ時代,同じ社会に生きる者であっても
必ずしも同じ道徳が適用される訳ではない。
コンテキストは
幾重にも重なる層のようになっている。
ベースとなる大きなコンテキストの上に
個々の多様なコンテキストが折り重なって
混在している。
同じ時代の同じ国や地域であっても
異なる立場,異なる思想を持つ人たちで
構成されている。
実際に受ける影響は,接した人や
知りえた情報に依存する。
親,兄弟,友人,先生,仲間。
生まれ育って,接した人たちはみな異なる。
また,
受け手にもよっても受け取り方は異なる。
受け手の性質やレベルによって
様々な反応が生まれる。
受け手の性質に関しては,
主に遺伝的要素が強いと思われる。
血のつながりが近しいものは
基本的に似た傾向を示す。
しかしながら,兄弟であっても
その性質が大きく異なる場合もある。
これは,絶妙な揺らぎが異なる可能性を
発現させているためだと思われる。
種としての多様性を生み出すためのもの
であろう。
受け手のレベルに関しては,
どの程度,またどのように
教育を受けたかによって
違いがもたらされる。
前提となる知識がなかったり,
理解できるように訓練されていなければ
より上位の概念を受容ことはできない。
さらにいえば,知識だけでなく
知性のレベルによっても異なる。
ロバート・キーガン教授によれば
知性には3つの段階があるという。
「環境順応型知性」
「自己主導型知性」
そして
「自己変容型知性」
第一段階の知性は
環境から望まれたものを読み取り,
あるべきカタチへと適合しようとする。
彼は与えられた課題をこなすだろう。
第二段階の知性は
自らの価値観において自律的に行動する。
自らを管理し,他者を導くことができる。
彼は自らこなすべき課題を設定するだろう。
そして
第三段階の知性は
あらゆるシステムが断片的で
不完全であると理解している。
1つの価値観だけでなく,
複数の視点や矛盾を受け入れられる。
彼はより大きな問題を解決するために
自らの知性をより高いレベルへと
変容させるだろう。
つまり
自分が影響を受けたコンテキストの
一側面を超える力。
自分が常識としていることを疑い,
その先にある真実を探求する力。
いま見えている星が全てではない。
本当に見るべき,
真なる星を探し続けけることはできるのだろうか。