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Discrete, integrate and balance

右脳と左脳を切り離されると連絡ができなくなり それぞれ別の判断と行動がなされる。 左脳は論理的に考えて行動しようとして右手に命令する。 右脳は感情的に考えて行動しようとして左手に命令する。 論理と感情が相反する事象に対応しようとしたとき 右手と左手は相反する行動をしようとし しかもそうであることを自覚することもできない。 逆にいうと,通常我々は自分の中の相反する判断に対して 無意識に折り合いをつけながら生きていると言える。 矛盾した自分というのは当たり前で 自分というのははじめから1つではなく 様々な感情や意志など複数の要素が関連し合い 統合されている(と思っている)状態である。 脳の機能のうち 自分を自分として認識している部分が破損した人は 自分を固定されている存在ではなく 水のように流動的で境界のないもののように感じる。 そして,感覚は世界へと延長され 宇宙と一体となったかのようにすら感じる。 実際,生命はその構成要素を刻々と置き換えながら ある種の流れの中に生きている。 霊というの存在の定義はよくわからないが ある意味,すべての生命は霊的だと言えなくもない。 実体と思っているものは流れの中のある時点の点 あるいは流れそのものであるからである。 個と捉えているものは流れであり より大きな流れの中の一部でもある。 少なくとも構成要素は そのもののアイデンティティとは無関係である。 “ゆく河の流れは絶えずして,しかももとの水にあらず” 水という構成要素は刻々と流れていき ある時点の水であることがその川をその川たらしめているわけではないが 「流れている」ということは川であることの条件の一部である。 * * * * * * * * * * それぞれの事物,あるいは自分というものが 離散的であるとか流動的であるとかいうように捉えてしまうと 建設的に思考を重ねることが困難になってしまう。 昨日の世界と今日の世界は違うし,昨日の自分と今日の自分も違う。 そのように考えてしまうと 昨日はそれでよかったことが今日はそうでないかもしれず また一から検証し,学びなおさなければならなくなる。 それでは厄介なので 同一のものみなし,過去の知見を今日でも活かせるとした方が 建設的に思考を成長させられると考えるのも無理もない。 実際に

What exists exists, what not exists not exists

あるものはある。ないものはない。 果たしてそうか。ないものをないと本当に言えるのだろうか。 * * * * * * * * * * 対象領域を限定した場合には言えるだろう。 目の前のテーブルの上にリンゴがあるのかないのか。 答えは何れかであり,どちらもありえる。 そしてある時点では決まっている。 たとえ何者も観測していなかったとしても。 * * * * * * * * * * 対象領域を限定しない場合はどうか。 人の認知しうる全てを対象とした場合。 世界のどこかにリンゴはあるか。 あるだろう。 たとえ過去または将来のある時点でリンゴのない時代があったとしても,時点を限定しなければ,やはりあるといえる。 我々は少なくともある時点ではそれがあったことを知っているからだ。 実在が不確実のものであっても「ない」としようとしているものの概念はある。 “宇宙に終わりはあるのか”などといった場合,その是非はともかく,“宇宙の終わり”という概念は自体は存在する。 空想の産物であっても,やはり頭の中で概念としては生み出されている。 そしてその概念を共有した時,はじめて「ある」のか「ない」のかを含めて論ずることができるようになる。 また,対象領域を限定しないということは,無限の可能性を含む並行宇宙のように実在の有無についても言及はしきれない。 * * * * * * * * * * 概念というものの集合について考えてみると,概念のないものは含まれない。 「ない」としようとしているものの対象は概念的には「ある」ので含まれる。 「ない」という概念についても,それ自体がこの問そのものではあるが,含まれる。 「ある」という概念については「ない」がないなら全て「ある」になるので,あえて定義する必要のある概念ではなくなり「ない」となってしまうのか。 いや,しかしながら概念の集合には「ある」も「ない」も含まれるだろう。 では,概念の集合に含まれないものは何か。 概念は人の知識を抽象化したものとすると,概念の集合は人の知識の集合に含まれる。   概念 ⊆ 人の知識 つまり,少なくとも誰も知らないものは概念の集合には含まれない。 人は知らないものは「ある」と知っている。 知らなかったも

Awe

我々の持っている自然に対する畏敬の念は 自然を完璧には理解できないし 制御することもできない 我々はその中で生かされている という現実からくるものではないだろうか。 もし,惑星や宇宙を自由に創造したり変容させたり できるようなテクノロジーを持った知性からすれば 我々が認識している自然というものに対して 畏敬の念を持つことはないのではないだろうか。 逆に言えば,自然に対して畏敬の念を持たない者は 人類は(自分は)何でもできる,何をしてもよい という傲りや勘違いではないか。 あるいは,無知によるものか。 自然への畏敬の念や道徳的観念は 人類の歴史的英知であり,伝承されてきたものだ。 科学は爆発的に発展してきたが現代では万能感が独り歩きしている。 何かが科学的に立証されたと言われれば納得する人も多いだろう。 かつて宗教が担っていた役割の一部が科学に置き換わってしまったようだ。 都市部に多く人が住むようになったことも原因の一つと考えられる。 都市は人間が考えたものを具現化したものだ。 ある種,世界を思い通りに変容させた結果である。 自然から遠く,人工物(科学)に近い。 公園の緑ですら,ほとんどの場合,人工的なものだ。 農業に従事している人などは 自然のように思い通りにならないことがあるのは 当然のことであると受け入れている。 都市で生きるものは 何でも思い通りになるのが当たり前だと思っているので 思い通りにならないことがあると苛立ち,悩む。 我々はより多くを知る必要があるし 同時により謙虚になる必要がある。 いまここにあることができるのは 過去からの歴史が紡がれてきた結果であり 未来へとその可能性を残す責任がある。 そのために,いま何をするべきか。

One sees the mud, and one the stars

牢獄に入れられた2人の囚人 ひとりは泥を見て ひとりは星を見た。 他人を羨む気持ちは泥, 自分の良いところに目を向けるのは星。 どんな人にも良い面,悪い面, 優れたところ,劣ったところはある。 羨望の眼差しを向けられる人にも 他者には分からない悩みはあるものだ。 自分の欠点や不利な点に注目するよりも 強みや有利な点を活かした方がよい。 星を見ることは, 人生をよりよく生きるための 秘訣のひとつだろう。 しかしながら,他者の良いところを見つけ, 引き出し,伸ばすこともまた星である。 あるいは,他者の悪い面を指摘して 扱き下ろしてばかりいては よい結果をもたらさないだろう。 星のカタチはひとつではない。 見るべきものはモノではなく 自分の心の状態にある。 自分が良い気持ちになれることに フォーカスすること。 だが,何によって気持ちがよくなるのかは 人によって異なる。 破壊や暴力,他者を貶めることで 快楽を得る者もいるかもしれない。 彼にとっては(邪悪な)星だが 世の中にとっては許容しがたいものである。 つまり,何を星とするべきなのか ということは,また別の問題なのである。 ・・・ では, 何を星と捉えることが望ましいのだろう。 それはコンテキストからもたらされる 道徳によって左右されている。 コンテキストとは,時代,土地,社会,宗教,文化,思想である。 社会を重んじるべきか,家族が大切か。 集団の調和か,個人の自由か。 人種や性別はどのような違いをもたらすか あるいはもたらすべきではないか。 平和や持続可能性というキーワードも 昔は今ほど強調されてはいなかっただろう。 しかし, 同じ時代,同じ社会に生きる者であっても 必ずしも同じ道徳が適用される訳ではない。 コンテキストは 幾重にも重なる層のようになっている。 ベースとなる大きなコンテキストの上に 個々の多様なコンテキストが折り重なって 混在している。 同じ時代の同じ国や地域であっても 異なる立場,異なる思想を持つ人たちで 構成されている。 実際に受ける影響は,接した人や 知りえた情報に依存する。 親,兄弟,友人,先生,仲間。 生まれ育って,接した人たちはみな異なる。 また, 受け手にもよっても受け取り方は異なる。 受け手の性質やレベルに

Between individual and species

種もまた,連続的であり,変化し続ける。 川のように流れ,分岐する。 また,途切れて消えることもある。 個体としての生命はさまざまな機能を持つ部分が協調動作している。 さらに代謝を行うことによって細胞やエネルギーを循環させ 活動・回復・成長・繁殖を可能とし,生命のシステムを成立させている。 一つの細胞だけがとても長寿であるとか とても強い力を発揮することは システム全体からすると無意味であるどころか害にすらなりうる。 古い細胞が分解され,新しい細胞が合成される。 システム全体は維持されているが,その細胞は循環している ということが重要である。 また,1個体の中で要素が循環しているのではなく 外部から何かを受け入れ,外部に何かを排出するということは システムを開かれた系にするという意味がある。 ・・・ 生命としての個の寿命もまた有限であるが, 無数の個が遺伝子を受け継ぎながら続いていく。 その中の個は種の存続を実現する要素に過ぎない。 個が有限であることが,種の多様性や変容性を高め, 全体として存続する可能性を高めている。 循環し,代謝することでシステムの強度を高めているのだ。 この観点で言えば, 個と種の関係は,個の生体と個の存在の関係との間において フラクタルな模様を描いていると言えるのではないだろうか。 種もまた有限であろう。 常に競争にさらされ,生き残りを賭けることを余儀なくされている。 種も絶滅の可能性を秘めながら変化し続けることで より高次元の何かを生み出そうとしている。 人類は終着点ではなく,過程に過ぎない。 より高い知性を持った何かが創発されることは十分にあるだろう。

Why does life prefer continuity

なぜ生命は連続性を好むのか。 私の存在は泡のように消え また再び現れるということはない。 たとえそれを望んだとしても。 もし,存在がデジタルの世界に置き換えられるとしたら あるときの状態は情報として保存され また別の任意の時間に復元することができるのかもしれない。 しかし,それは生命ではない別の何かだ。 不変ではなく,常に変化し続け しかも途絶えることがない。 いつか一個体としての生命として 終わりを迎えるまでは。 変化し続ける私は私ではあるが その瞬間の私と次の瞬間の私は別のものであるとも言える。 そして,そのようであることが連続している。 そのような存在としての私が 生命としての私である。 生命は身体に宿り,身体は変化し続ける。 意識や精神も身体の機能の一部であるならば それもまた生命の一部である。 もし誰かが彼と話をしたら それは単に彼から情報が引き出された というだけではなく 同時に彼の中の変化に影響を与えている。 対話や思考はそれ自体によって変化がもたらされる。 データベースから情報を取り出すこととは異なるものだ。 それは保存されることのない情報が 止まることのない時間の中で流れ続けているともいえる。 それは完全に捉えることができず 再現することはできない。 やり直すことはできない。 ・・・ しかしながら,意識に関して言えば デジタル化によって情報として保存することができる可能性がある という話もある。 もし再現された自我が異なる環境要因で変化するならば オリジナルとは違った変化をするだろう。 すると異なった分岐の可能性は永遠と続き 並行する異なる意識が無限に増える。 そうだとしても,それらは私と言えるのだろうか。 あるいは,環境要因で変化しないのであれば それは単なる情報であって ある側面の写像といえるかもしれないが 生命とは言えない。 また,デジタル化された情報であれば その一部を書き換えることもできだろう。 そうした場合,それは人のものといえるのか, それとも人工的なものというべきものなのか。 身体についても 組成情報の保存と復元方法が確立されたとすれば 再現できるのかもしれない。 仮に機能が同じであっても,それは生命